古事記絵巻
ko0904-001 古事記絵巻  雲井呆斎

古事記絵巻 第二章 伊邪那岐・伊邪那美編 其の五 黄泉の国

「黄泉国(ヨミノクニ)とは即ち冥府。伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の別離により、以後、世の中では一日に千人の人が死に、千五百人の子供が生まれるようになったのです」と猫間教授は言った。
 ボクは男神で凪は女神。観客のいない小さな公園のベンチでボクたちは黄泉国を巡る冒険を始める。
「伊邪那岐、即ちボクは、伊邪那美、即ちキミの死を悲しむあまり黄泉の国へ行った」ボクは墓地を指差す。
「死体となって埋められたキミは、つまりはもう死体なわけで、ボクは今、真っ暗な墓地をうろうろとさまよっているけれど、それは即ち、こここそ黄泉国の正体だとボクが解釈したからで『つまり埋葬されたキミを掘り出すために』ボクは夜の墓地に迷い込んだ哀れな男神と言うシチュエーションなんだ」  この暗闇の中、ボクは寂しさと切なさに任せて、死んだキミに話しかける。「かわいい我が妻よ、オレはお前とまだまだ一緒にいたかった。国造りだって途中じゃないか。今一度オレのもとに帰って来てはくれまいか」ボクはキミの返事を聴こうと耳に全神経を集中させてうずくまる。と、どこからともなく女神であるところのキミがボクに囁きかける。「だめなの。だって私、こちらの世界の食べ物を食べちゃったんだもの。黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)。だけど私も、もう一度あなたと国造りをしてみたいわ。そうね、黄泉神(ヨモツカミ)さまに一度お伺いしてみるわ」ボクはキミの姿を求めてキョロキョロとあたりを見回す。「ダメよ、さがさないで。その時が来たらきっと私から姿をあらわすから」キミの気配がふっと消える。あたりに静寂のみが残る。
「あれ? じゃあ、私、即ち女神は実際に男神に話しかけたの?」と凪が不思議そうに聞く。「ううん。もちろんこれはボク、即ち男神の幻聴さ」とボクは答える。だけど、男神はそれを女神の言葉だと信じ、暗い墓地でじっと待ち続けると言うわけ。「ねえ、まだかい?」何度問えども、もう幻聴は答えない。男神はイライラと爪を噛み、とうとう我慢できずに松明に火をつける。あたり一面明るくなり、男神はその火の下で、木の鍬を使って土を掘り、妻の死桶を掘り起こす。 「死体は?」「もちろん腐っていたさ」
 煌々と燃える火の下に引き出された妻は、体中に蛆が湧き雷神によって汚染され、強い腐臭を発する物体と変わり果てている。そのあまりもの醜さに、男神は恐怖以外のいかなる感情も失い「ぎゃ」と一声叫んだまま一目散に山を駆け下りてしまった。
 墓をあばかれ、その醜く変わり果てた姿をさらされた上で、拒絶される。女神は怒った。「こんな辱めを与えるなんて。私はあなたを決して許さないから」女神は男神の追っ手として醜女(シコメ)を放った。
「その醜女は黄泉の使い?」と凪は首を傾げる。本来は醜い女性のことだけどこの場合山の中のことだし、たぶんブヨやアブや蜂だね、とボクは答える。  暗い山道を走る男神の汗や体液が、これらの蟲たちを集め、蟲たちは逃げるものを追うというその本能のままに男神を追ったのであろう。男神はそれを女神の差し向けた追っ手だと感じ必死に逃げた。そして苦しまぎれに髪飾りを投げる、と、不思議なことにその髪飾りが山葡萄となった。醜女たちは山葡萄に群がり、食べることに夢中になり、男神は窮地を脱することができた。しかし醜女どももなかなかしつこく、しばらくするとまた追いかけてくる。驚いた男神は、今度は右の髪に付けていた櫛の歯を一本折って醜女たちに向けて投げた、と、その櫛の歯はたちまちに筍となり、喜んだ醜女たちはそれを掘るのに夢中になり、伊邪那岐はまたしても無事に窮地を脱することが出来た。(ボクはここで醜女には二種類あったのではないかと想像する。一つ目は山葡萄で追い払った蟲たちの醜女で、二つ目は筍に集まったところから、蟲ではなく獣、即ち猪やら猿やら、そういった森の獣たちの醜女、という風にである。閑話休題)
 二度に亘る失敗で、醜女では埒があかないと判断した伊邪那美は自分にまとわりつく雷神たちに千五百人の軍勢を付けて伊邪那岐を追わせることにした。しかし、もしこれまでの出来事が男神の恐怖心が生み出だした感覚的世界と考えるならば、この雷神の軍勢も現実には違う何かをそう置き換えたと考えねばならぬ訳で、ボクはそれを腐臭ではなかったかと思うのである。
 蟲や獣たちの襲撃をさけた男神は、昂ぶった心が落ち着くと同時にその鼻の粘膜にこびりついた死者の臭いを意識し始めたのであろう。その臭さに我慢できなくなり苦し紛れにあたりを見回した男神が見つけたのが桃の木即ち邪気をはらう神聖なその香りであったのであろう。雷神の軍勢はあっけなく敗退する。男神は喜び、黄泉比良坂(ヨミノヒラサカ)の麓にある桃に語りかける。
「嗚呼、桃の実よ。お前が今回私を助けてくれたのと同様に、これから先もこの世に生きる人々が悩んでいる時には、きっと助けてあげておくれ」桃の実はその日より意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)という神名を持つようになった。
 醜女を散らされ雷神を退治された伊邪那美は、最後には己自身が鬼と化して伊邪那岐を追いかけてくる。これも男神の空想だとすると、あるいはそれは男神自身の意識の中に起こった葛藤かもしれない、とボクは思う。蟲や獣の襲撃を避け臭いを取り除いた後、男神は改めて変わり果てた妻を思い出し、それに対する嫌悪(死穢への怯え)と、その嫌悪する己の心の醜さを認識してしまったのではなかろうかとボクは推考するのである。
 男神は己の中に生じた心の迷いを封印するため、あの世とこの世をつなぐ黄泉比良坂の真ん中に巨大な岩を配した。この岩を千引の石(チビキノイワ)と言う。  女神は岩の向こう側で叫ぶ。「愛しいと思っていたあなたなのにこの仕打ち。私は決してあなたを許すことはないでしょう。これより先、私はその岩の向こう側の人を一日に千人殺すでしょう」男神はゼイゼイと喘ぎながら言い返す。「変わり果てた妻よ、お前がそうするのであれば、オレはこちらの世界で一日に千五百人の赤子を産ませるであろう」
 岩は二人を永遠に分かち、その別離によって黄泉(混沌)と現世(秩序)は明確なものとなる。巨大な岩の向こう側で、伊邪那美は黄泉津大神(ヨモツオホカミ)あるいは道敷大神(チシキノオホカミ)となり、以後、現世から黄泉国へと人を誘うを常とした。
 出雲国の伊賦夜坂(イウヤザカ)。黄泉比良坂は、今もひっそりとこの世とあの世の境にただ存在する。